2017年2月4日に東京稲城市で開催された「メカデザイナーズサミットVOL.05」を観に行ってきました。「ぼくらのタイムボカンシリーズだペッチャ!」をテーマにしたトークショーに笹川ひろし監督、布川ゆうじさん、大河原邦男先生がゲスト出演しており、シリーズの裏話が色々聞けて本当に楽しいイベントでした。

京王相模原線「若葉台駅」から徒歩2分、会場となる「稲城市立iプラザ」に到着。トークショーは14時から開催だったのですが、良い席を取るため早めに会場入りして、最前列ど真ん中の、笹川監督の目の前の席を確保できました。

メカデザイナーズサミット

トークショーは、まず稲城市長の挨拶からスタートしました。タツノコプロ創立55周年を記念して、今年4月に南多摩駅にヤッターワンのモニュメントが設置されるとのことです。また会場にはタツノコプロの社長と専務が来ており、市長の紹介で客席から立ち上がって一礼していました。

そして司会の五十嵐浩司さんが登場して、五十嵐さんの呼びかけで布川ゆうじさん、笹川ひろし監督、大河原邦男先生がステージに現れて、いよいよトークショーがスタートとなりました。内容については、概ね次のようなことをお話になっていました。


笹川ひろし監督:
手塚治虫先生に漫画の原稿を送ったところ返事が来て、専属アシスタント1号になった。吉田竜夫社長は兄弟3人で1つの漫画を描いており、漫画工房みたいだったため、これは漫画家と言えるのか疑問だった。アニメについては、虫プロで絵コンテ2つ手伝っただけだったが、吉田社長と話しているうちに自分でもやりたくなって、東映動画と一緒にやることになった。東映のアニメーター養成所に三ヶ月通って宇宙エースの企画を進めていたが、諸事情で駄目になってタツノコは引き上げとなり、東映は宇宙ホッパーに切り替えて作品放映した。監督はアニメが駄目なら漫画家に戻るつもりだったが、アニメをやってみたいという気持ちが強くなり、吉田社長を止める立場にあったのだが、出版社に漫画連載を断ってきた。手塚先生に報告すると「ええ、そうかい。君だけは漫画家で残ってくれ」と言われたが、それでも断ってアニメに鞍替えした。それからの苦労は、一晩語っても語りきれないぐらいで、国分寺のプレハブで、東映の養成所で習ったばかりの技術を教えながら、15分のパイロットフィルムを作った。何もかもが手探りで、机の置き場所なども苦労した。新聞広告で製作スタッフを募集すると70人ぐらい応募があり、30人ぐらい採用して宇宙エースを作った。テレビ局に売り込みしたくても映写機すらない状態で、怖さを知らずで15分作り上げて、放映が決まった後は30分を毎週作り続けた。白黒作品だったからどうにか1年やったが、次の作品からはカラーになり、絵の具の種類が5種類から100種類以上に増えた。マッハGoGoGo、いなかっぺ大将、ハクション大魔王など作品が続き、美術部で背景を作っていたのだが、1972年に大河原先生が入社してきた。

大河原邦男先生:
上司は中村光毅さんで、もし中村さんがいなかったら今の自分はなかった。手取り足取りで教えてもらう環境ではなく、横目で見ながら技術を覚えた。

布川ゆうじさん:
カバトットから参加したが、当時のタツノコはハードボイルド寄りの鳥海組とギャグ寄りの笹川組の2つがあり、自分はギャグが好きだったので笹川組に入った。笹川監督は演出すると視聴率が取れる視聴率男と言われていて、「アニメ界の欽ちゃん」と称されていた。普段はひょろっとして風邪を引いている人なのだが、その世代の人は熱病にかかったかのようにアニメ制作に没頭していた。この業界に入ってからアニメを知った。映画が好きでグラフィックデザイナー志望だったが、上京して偶然アニメ業界に入った。アニメバカだったというわけではない。虫プロでゲバゲバやってギャグの面白さを知った。当時、タツノコに入るかサンライズに入るか2つの道があったが、もしサンライズに入社してたら自分が富野になっていたかもしれない。富野監督とはキャシャーンで一緒に演出をやっていた。優秀な人材が沢山いて最高級に輝きがあった時代だった。

笹川ひろし監督:
旅館に泊まってアニメの企画していた。原作ありと違ってオリジナルはやってみないと人気が出るか分からないが、タツノコはオリジナルをやれるという自負があったため、原作を買うのはプライドが許さなかった。社長や美術など7人くらいで相模湖のホテルに飛び込みで入って企画した。荷物を置いて散歩して、戻ると夕飯の時間で、酒が入って、そのままお風呂と、12時過ぎてから企画会議がスタートした。みんなお酒を飲むので、飲まない人は大変だった。散歩や雑談が役に立ってウォーミングアップとなった。3日くらいで大体完成して、会社に戻って正式に企画して、1週間ぐらいで仕上がっていた。

布川ゆうじさん:
企画会議はヤッターマンで参加したが、社長や九里さんと一緒に酒を飲んだ。企画作るまで帰れなかった。アニメはペーパーワークでイメージが沸きにくい。タイムボカンは最初つまらなかったが、三悪の声が面白くて悪中心となって、主人公の出番がなくなってキャストがブーブー言っていた。

大河原邦男先生:
入社した時は150人ぐらいスタッフがいた。若さは怖い、何も気にしないで給料貰うためにやっている。給料が安くて大変だったので、布川さんみたいに他に行って稼いでいた。タイムボカンはヤゴマリンのデザインから参加した。ボカンの仕事はお金を貰わなくても楽しい。

※ここで大河原先生が所有していた写真3枚がスライドで表示される。

・タツノコ創立十周年の記念写真(1972年10月29日)
・岐阜グランドホテル(1973年8月25日)
・伊勢神宮参拝記念(1972年11月9日)

1枚目には笹川監督、吉田三兄弟、中村光毅さんと大河原先生の姿が写っていて、2枚目には吉田社長の長女の吉田すずかさんが写っていた。布川さんは3枚目の伊勢神宮の写真に写っていて、布川さんの隣の隣には秋本治さん(こち亀作者。当時タツノコで働いていて、布川さんがカバトットをやっていた時のアシスタントをしていた)がいて、中央付近には小山高生先生の姿もあった。



布川ゆうじさん:
タツノコにいながらぴえろ設立の準備をしたが、タツノコのスタッフを多数引き抜いてしまい、タツノコ創立50周年のステージでようやく謝罪した。大河原先生を引き抜かなかった理由は、当初そういう作品を作る予定がなかったからだった。

※ここでスクリーンにタイムボカン後期OPの映像が再生された。

笹川ひろし監督:
1972年にタイムボカンのパイロットフィルムを作ったが、冒険物を作ろうとしてSFアニメになった。セールスしても売れず3年間お蔵入りになった。スキャニメイトが理解されなかった。タカトクトイスがスポンサーになって改めて作り直した。1年経つと、このまま終わらせるのは勿体無いという話になって、三悪を残して内容を変えてシリーズとして続いた。夏のプレハブスタジオでメカを考えていると、窓からカブトムシが飛び込んできて、「これだ」と中村光毅さんに話してメカブトンが誕生した。昆虫、動物、巨大ロボと色々登場させたが、玩具メーカーにとって売れるのは巨大ロボであった。タカトクから「人間やってみない」と話が来た時、ちょうどメカがネタ切れしかけていたので、大河原先生に丸投げした。大河原先生が木型で大巨神を作って変形プロセスを見せると、タカトクの社長はびっくりした様子で大喜びして即採用となった。ヤットデタマンは名前を考えるのに苦労したが、たまたま出た「やっと出た」の一言が良くてそれを提案した。最初は嫌な顔されたが、大野実さんも「いいかもしれない」と言ってくれた。「深い意味がある」と力説したが、言ってみるものだなと思った。

※ここでスクリーンにタイムボカンEDの映像が再生された。布川さんが絵コンテを担当していた。

笹川ひろし監督:
押井守さんを演出として育てた。人手が足りなくなり募集してタツノコ四天王が入社、最初に三人入社して、1年後に押井さんが入社した。四人には倉庫の作品を自由に見ていいと言って、映像を見ては興奮していた。四人で競わせて試写をして、褒められて上達していった。やらないと上達しない。試写室でいつも寝る人がいて、その人が寝なかった作品は面白いという基準があり、寝ないよう買収する人が出てきた。四人はタイムボカンシリーズで力になった。

布川ゆうじさん:
当時タツノコは労使関係で問題があって人が減っていた。四人には教育係としてコンテで練習させた。仕事しながら学んでいった。天野喜孝さんはいつも夕方に出社してきて、総務の人が「何故社員にするのか。すぐにクビにすべき」と言って、社長が「この人は特別だから」と慌てて止めた。天才だった。

大河原邦男先生:
タツノコ時代は楽だった。仕事は1本だけで定時に帰っていた。あらゆるキャラを残せる特異な立場だった。メカデザインは色々な人の意見が入っており、ヤッターワンも誰のアイデアなのか不明である。

布川ゆうじさん:
コクピットメカは、最初はガイコツ(ドッチラケ人形)はあまり評判が良くなかった。

笹川ひろし監督:
おだてブタは思いつき。天から降ってくる。シナリオには全くない遊びだった。ギャグはシナリオ通りだと面白くない。脚本家の中には勝手に変えたことに怒って殴り込みに来る人がいた。鳥海尽三さんから「文芸部の部長が判子を押したシナリオを、なぜ演出部が勝手に変えるのか」とクレームがきた。何故無茶苦茶にするのかと。演出を増やすとどこかカットすることになり、運悪く脚本家が必死で書いた名場面だったりすると、何故あそこをカットしたのかとクレームになった。ドッチラケ人形などシナリオで書くわけがない。一度出すと、次からシナリオに入れるようになった。シナリオはしっかりしていたがカットしていた。

大河原邦男先生:
ゾロメカは絵コンテが来てからデザインした。ヤッターマンは絵も簡単で、キャシャーンの方が大変だった。当時タツノコはガッチャマンメインで、キャシャーンは手を抜けと言われた。

※ここでスクリーンにヤッターマン前期OPの映像が再生された。布川さんが絵コンテとオモッチャマのデザインを担当した。司会の五十嵐さんに「グロッキーのモデルは笹川監督と布川さんのどちらなのか」と聞かれて、布川さんは「顔は笹川さん、性格は自分」と答えていた。

布川ゆうじさん:
八奈見乗児さんは素晴らしい声優だった。体調を崩して養老院に入っているらしい。

笹川ひろし監督:
八奈見さんのアドリブが凄かった。アフレコで面白いことを言ってくれるのを楽しみにしていた。声優同士の雑談からヒントを得て50年後のヤッターマンをやったりした。

大河原邦男先生:
タイムボカンはやったことなかったが、リメイクのタイムボカン24でアクダーマのメカデザインを担当しており、これで全シリーズ参加したことになった。

※ここでスクリーンにヤッターマン前期EDの映像が再生されて、その後に質疑応答の時間となった。私も手を上げたものの、別の方が指名されて「会津若松のおハナちゃん」について質問。

笹川ひろし監督:
おハナちゃんのネタはシナリオにはなくて、勝手にちょっと入れてみただけ。会津若松出身という部分から見ると、ボヤッキーのモデルは自分なんだと思う。2006年のリメイクヤッターマンで、ボヤッキーが会津若松に帰るシーンをやったところ、会津の人が感動して町興しをしようという話になった。しかし版権使用料が高く、せめてボヤッキーだけでもと言ってきたので「あれ泥棒ですよ」と説得した。結局、監督自身が会津若松の観光大使に任命されて、昨年は福島県から県外在住者功労賞を受賞した。

※次の質問募集となったため再び挙手すると、今度は私を指名して貰えました。何を質問するか迷いましたが、全国のボカンファンが最も気になっているであろう「タイムボカン24の感想」について聞いてみました。

笹川ひろし監督:
最初は思っていたのとだいぶ違って、遠くなってる感じがした。出来のいい回と酷い回の落差が大きいが、だんだんバランスが良くなっている。若い人達が頑張っているのでいい絵ができている。ただもう少し秒数が欲しい感じがする。新しいタイムボカンをやっていると思う。

※続いて3人目の方が「仕事中の失敗談」について質問。

布川ゆうじさん:
タツノコのスタジオが何もない場所にあったので、麻雀の禁断症状が出てきた。メンバーを集めては笹川監督の目を盗んで麻雀して「番組に穴を空ける気か」と怒られた。

笹川ひろし監督:
忙しい時に4人いなくなって、雀荘に電話すると見つかって「この大事な時に何をやっているんだ」と怒ると、「私達も頑張っているのに何をお怒りなんですか」と逆ギレされた。忘年会やっても4人いなくなっていた。麻雀という言葉を聞くのも嫌になっていたが、タツノコをやめた後にプロデューサーに誘われてやってみたら面白くて、夢の中にピンズが出てくるぐらい嵌ってしまった。

布川ゆうじさん:
麻雀のマは麻薬のマなんです。

笹川ひろし監督:
あの当時やっていたら嵌っていた。

布川ゆうじさん:
もし監督が嵌っていたらタツノコは潰れてた。

大河原邦男先生:
タツノコ専属で仕事をしていたはずが、別の会社の仕事もやっていた。


ここで時間となり、トークショーは終了しました。最後にじゃんけん大会が開催され、勝ち抜いた2名にゲスト3人の直筆サイン入りポスターが当たるという企画が始まりました。全員椅子から立ち上がってステージ上の大河原先生とじゃんけん対決したのですが、私は初戦敗退してしまいました。

こうして夢のような2時間はあっという間に終了となりました。笹川監督にタイムボカン24の感想について質問するという、タイムボカンシリーズ研究家としての使命と責任を無事に果たすことができて、本当に最高の一日でした。